なぜ待乳山聖天にガネーシャがいる?聖天さまの正体と歴史を調べてみた

体験記録

東京・浅草にある待乳山聖天(まつちやましょうでん)

待乳山聖天について調べていて、以前から気になっていたことがあります。

「なぜ浅草のお寺に、インドの神様ガネーシャがいるのだろう?」

象の頭を持つヒンドゥー教の神として知られるガネーシャと、日本のお寺。

一見すると、あまり結びつかないように思えます。

ところが調べてみると、待乳山聖天で「聖天さま」として信仰されている大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)は、そのルーツをインドまでたどるとガネーシャやヴィナーヤカにつながる神格でした。

ここまでは比較的簡単に分かります。

しかし、もう一つ疑問が残りました。

「では、ガネーシャにつながる聖天さまは、いつから浅草の待乳山で信仰されているのだろう?」

待乳山聖天に伝わる縁起では、その歴史はなんと推古天皇9年(601年)までさかのぼります。

しかし601年といえば飛鳥時代です。

本当にその頃の東国で、インドに起源を持つ歓喜天がすでに信仰されていたのでしょうか。

気になってさらに調べていくと、平安時代の高僧円仁(慈覚大師)と、歓喜天に関係する密教典籍にたどり着きました。

この記事では、なぜ待乳山聖天とガネーシャがつながるのか、そして待乳山ではいつから聖天さまが信仰されているのかを、寺に伝わる縁起と歴史資料から確認できることを分けながら調べてみます。

なぜ待乳山聖天とガネーシャがつながる?

まず、「なぜガネーシャがいるのか」という疑問から調べてみました。

結論からいうと、待乳山聖天にヒンドゥー教のガネーシャ像がそのまま祀られている、という意味ではありません。

待乳山聖天で「聖天さま」と呼ばれている大聖歓喜天は、そのルーツをインドまでたどるとガネーシャやヴィナーヤカにつながる神格だからです。

大まかな流れを整理すると、


インドのガネーシャ・ヴィナーヤカ系の神格

仏教に取り入れられる

毘那夜迦(Vināyaka)などとして密教の中で信仰される

中国へ伝わる

日本で歓喜天・大聖歓喜天・聖天さまとして信仰される

という流れになります。

つまり「待乳山聖天にガネーシャがいる」というより、聖天さまのルーツをインドまでさかのぼると、ガネーシャと深く関係する神格にたどり着くと考えた方が正確です。

そもそもガネーシャとはどんな神様?

ガネーシャは、象の頭と人間の身体を持つ姿で知られるヒンドゥー教の神です。

インドでは、障害を取り除く神、学問や商売などに関係する神として広く信仰されています。

一方、仏教ではヴィナーヤカ(Vināyaka)と呼ばれる神格が取り入れられ、漢訳仏典では毘那夜迦・毘那耶迦などと表記されました。

そして密教の中で信仰が展開し、日本では歓喜天・大聖歓喜天・聖天さまなどの名前で知られるようになります。

そのため、ヒンドゥー教のガネーシャと日本の歓喜天を、まったく同じ存在として単純に扱うことはできません。

ただ、その成立をさかのぼっていくと、両者の間に歴史的・宗教的なつながりが見えてきます。

待乳山聖天では601年に聖天さまが現れたと伝わる

では、待乳山ではいつから聖天さまが信仰されているのでしょうか。

待乳山聖天に伝わる縁起では、その始まりは推古天皇3年(595年)にさかのぼります。

この年、現在の待乳山が突然盛り上がり、そこへ金色の龍が舞い降りて山を守護したと伝えられています。

そして推古天皇9年(601年)、この地域が大干ばつに見舞われた際、十一面観音が大聖歓喜天の姿となって現れ、人々を救ったと伝えられています。

これが、待乳山における聖天さまの信仰の始まりとされています。

しかし、ここで私は少し疑問に思いました。

601年といえば、まだ飛鳥時代です。

仏教が日本へ伝わってからそれほど時間が経っていない時代に、インドのガネーシャにつながる歓喜天信仰が、東国の浅草ですでに存在していたのでしょうか。

もちろん、これは待乳山聖天に伝えられてきた大切な縁起です。

ただし、寺に伝わる縁起上の年代と、現存する歴史資料から確認できる歓喜天信仰の広がりは分けて考える必要があります。

そこで、歴史資料から確認できる歓喜天の日本への伝来を追ってみることにしました。

調べていくと平安時代の高僧「円仁」にたどり着いた

待乳山聖天の歴史をさらに調べていくと、興味深い人物が登場します。

慈覚大師・円仁(えんにん)です。

円仁は最澄に師事した天台宗の僧で、承和5年(838年)に遣唐使とともに唐へ渡りました。

唐では五台山や長安などを巡り、密教をはじめとする仏教を学び、承和14年(847年)に日本へ帰国しています。

しかも円仁は、現在の栃木県にあたる下野国の出身です。

比叡山の高僧がまったく縁のない東国へやって来たというより、円仁自身が東国に出自を持つ人物でした。

そして、この円仁を調べていくと、歓喜天との具体的な接点が見えてきます。

円仁はガネーシャにつながる歓喜天を知っていた?

ここで気になったのが、

「円仁自身は歓喜天、つまりガネーシャにつながる神格を知っていたのだろうか?」

ということです。

円仁が唐から請来した経典や仏教関係の典籍を記録した『入唐新求聖教目録』を見ると、歓喜天に関係する典籍が記録されています。

その中に見られるのが、

『大聖天歓喜双身毘那耶迦法』

という名の典籍です。

「毘那耶迦(毘那夜迦)」は、サンスクリット語のVināyakaに由来する名称です。

つまり少なくとも、円仁が唐から請来した仏教典籍の中に、歓喜天・毘那耶迦に関係する密教典籍が含まれていたことになります。

ここまでくると、円仁と歓喜天との関係は単なる想像ではありません。

円仁が唐で歓喜天に関係する密教典籍に接し、それを日本へ請来していたことを示す資料が残っているわけです。

歓喜天に関係する典籍には「象の頭」と「大根」が登場する

さらに興味深いのが、歓喜天・毘那夜迦に関係する古い典籍の内容です。

そうした典籍を見ていくと、毘那夜迦について象の頭と人間の身体を持つ姿として表現するものがあります。

これを見ると、インドのガネーシャとのつながりもイメージしやすくなります。

そして、さらに気になったのが供物についての記述です。

歓喜天・毘那夜迦に関係する典籍には、「蘿蔔(らふく)」という言葉も見られます。

「蘿蔔」は大根を意味します。

現在の待乳山聖天といえば、参拝者が本堂に大根をお供えすることで知られています。

私も実際に参拝した際、大根をお供えしました。

もちろん、現在の待乳山聖天で行われている大根のお供えが、こうした古い典籍の記述から直接始まったと断定することはできません。

また、円仁の『入唐新求聖教目録』に記録された典籍と、現在確認できる歓喜天・毘那夜迦関係の典籍本文との関係についても、慎重に考える必要があります。

それでも、歓喜天・毘那夜迦に関する古い典籍の中に、象頭の姿だけでなく、大根に関係する記述まで見られるのは非常に興味深いところです。

待乳山聖天でなぜ大根をお供えするのかについては、別の記事で詳しく調べています。

関連記事▶▶待乳山聖天ではなぜ大根を供える?大根が夫婦和合を意味する理由を調べてみた

857年、円仁が待乳山で浴油の修法を行ったという伝承

そして円仁と待乳山をつなぐ、もう一つの伝承があります。

待乳山聖天では天安元年(857年)、円仁がこの地を訪れたと伝えられています。

待乳山聖天の由緒では、このとき円仁が聖天さまの像を造り、浴油の修法を行ったとされています。

浴油供は、歓喜天を供養する密教修法として知られています。

そして現在の待乳山聖天でも、浴油祈祷が行われています。

実際に現地でもらったパンフレットにも、浴油祈祷について説明がありました。

ここまでの年代を並べてみると、かなり興味深い流れになります。


601年 待乳山の寺伝では大聖歓喜天が現れたとされる

838年 円仁が唐へ渡る

唐で密教を学び、歓喜天に関係する典籍にも接する

847年 円仁が日本へ帰国

857年 待乳山で聖天像を造り、浴油の修法を行ったと伝わる

601年の縁起から約250年後、歓喜天に関係する密教典籍を唐から請来したことが資料から確認できる円仁が、待乳山の伝承にも登場します。

このつながりは、待乳山聖天の歴史を考えるうえで非常に興味深いところです。

では、円仁が待乳山に歓喜天信仰を伝えたのか?

ここまで調べると、

「それなら円仁が待乳山へ歓喜天信仰を持ってきたのでは?」

と考えたくなります。

601年という寺伝よりも、唐で密教を学んだ円仁が帰国した後の857年の方が、歴史の流れとしては理解しやすく感じるからです。

しかし、現時点ではそこまで断定することはできません。

今回確認できたことを整理すると、

  • 待乳山聖天には601年に大聖歓喜天が現れたという縁起がある
  • 円仁が唐から歓喜天に関係する典籍を請来したことを示す目録が残っている
  • 待乳山には857年に円仁が聖天像を造り、浴油の修法を行ったという伝承がある

というところまでは確認できます。

一方で、

「円仁が待乳山で初めて歓喜天信仰を始めた」

と直接結びつける史料までは、今回の調査では確認できませんでした。

むしろ待乳山の縁起では、その約250年前にすでに聖天さまが現れたことになっています。

そのため、601年は待乳山に伝わる縁起、857年は円仁にまつわる寺伝、そして円仁が歓喜天関係の典籍を請来したことは歴史資料から確認できることとして分けて考えるのがよさそうです。

実際に待乳山聖天でガネーシャを探してみた

ここまで調べると、実際の待乳山聖天ではどのように伝えられているのか気になってきました。

そこで今回、浅草寺と浅草神社を参拝したあと、実際に待乳山聖天へ行ってみました。

浅草神社から歩いて約15分。

初めて歩く道でしたが、迷うことなく到着できました。

そして境内を歩きながら、事前に気になっていたものを探してみます。

  • ガネーシャや象を思わせるものはあるのか
  • 円仁について説明されているものはあるのか
  • 601年や857年について現地ではどのように説明されているのか
  • 大根や巾着の意匠はどこにあるのか

特に気になっていたのがガネーシャです。

歓喜天のルーツがガネーシャにつながるなら、境内のどこかに象の姿があるのではないか。

そんなことを考えながら探してみました。

ガネーシャは見つけられなかった

しかし、実際に境内を歩いてみても、私には「これはガネーシャだ」と分かるものを見つけることはできませんでした。

参拝前には、象の頭を持つガネーシャ像のようなものを何となく想像していました。

ところが実際の待乳山聖天で圧倒的に目につくのは、ガネーシャではなく大根と巾着です。


本堂や境内のさまざまな場所に、大根や巾着を表した意匠があります。

そして境内には、参拝者がお供えするための本物の大根まで用意されています。

インドのガネーシャを探すつもりで訪れましたが、実際の境内で目にしたのは、日本で長い時間をかけて信仰されてきた「聖天さま」の世界でした。

考えてみれば、ガネーシャ像が見つからないこと自体は不思議ではありません。

ここで信仰されているのは、ヒンドゥー教のガネーシャをそのまま祀ったものではなく、仏教・密教の中で展開してきた大聖歓喜天だからです。

現地のパンフレットでは聖天さまをどう説明していた?

参拝時に、待乳山聖天のパンフレットもいただきました。

そこでは大聖歓喜天について、密教における大日如来の究極の方便の姿として説明されていました。

また、二尊が抱き合う姿は「和合」を表し、自他が調和することの尊さを示すものとされています。

ここが、今回実際に待乳山聖天を訪れて特に面白く感じたところです。

ルーツをたどればガネーシャやヴィナーヤカにつながる。

しかし、現地で聖天さまについて知ろうとすると、「インドのガネーシャ」という説明だけでは見えてこない、日本の密教の中で信仰されてきた歓喜天としての姿が見えてきます。

インドに起源を持つ神格が仏教・密教に取り入れられ、中国を経て日本へ伝わり、長い時間をかけて現在の「聖天さま」の信仰へとつながってきた。

実際に参拝してみると、単純に「歓喜天=日本版ガネーシャ」と考えるだけでは分からない部分があることを感じました。

まとめ|なぜ待乳山聖天とガネーシャがつながるのか

「なぜ浅草のお寺にガネーシャがいるのだろう?」

そんな疑問から調べ始めましたが、実際には「待乳山聖天にインドのガネーシャがそのまま祀られている」という単純な話ではありませんでした。

今回調べて分かったことを整理すると、

  • 待乳山聖天で「聖天さま」として信仰されているのは大聖歓喜天
  • 歓喜天のルーツをインドまでたどるとガネーシャやヴィナーヤカにつながる
  • ヒンドゥー教のガネーシャがそのまま祀られているわけではない
  • 待乳山の縁起では601年に大聖歓喜天が現れたと伝えられている
  • 円仁は838年に唐へ渡り、847年に帰国した
  • 円仁の『入唐新求聖教目録』には歓喜天に関係する典籍が記録されている
  • 歓喜天・毘那夜迦に関係する古い典籍には、象頭の姿や大根に関係する記述が見られる
  • 待乳山では857年に円仁が聖天像を造り、浴油の修法を行ったと伝えられている
  • ただし、円仁が待乳山の歓喜天信仰を始めたと断定できる史料までは今回確認できなかった
  • 実際に境内を探してみたが、私はガネーシャと分かるものを見つけられなかった

つまり、

「待乳山聖天にガネーシャがいる」というより、インドのガネーシャやヴィナーヤカにつながる神格が仏教・密教に取り入れられ、日本で大聖歓喜天、つまり「聖天さま」として信仰されている

と考えるのが分かりやすそうです。

そして今回、特に気になったのが601年と857年です。

待乳山の縁起では、601年に聖天さまが現れたと伝えられています。

一方、歴史資料を見ると、9世紀には円仁が唐から歓喜天に関係する典籍を日本へ請来していたことが確認できます。

さらに待乳山には、その円仁が857年に聖天像を造り、浴油の修法を行ったという伝承があります。

601年と857年のどちらか一方を「本当」と決めるのではなく、寺に伝わる縁起と、歴史資料から確認できることを分けて考える。

そうすると、待乳山聖天の歴史がより面白く見えてきました。

そして実際に待乳山聖天を歩いてみても、私が想像していた「インドのガネーシャ」は見つかりませんでした。

代わりに目にしたのは、境内のいたるところにある大根と巾着、大根をお供えする参拝、そして現在も続く浴油祈祷でした。

ガネーシャを探しに行ったはずなのに、そこで出会ったのは、日本で長く信仰されてきた「聖天さま」でした。

インドに起源を持つ神格が仏教に取り入れられ、中国を経て日本へ伝わり、やがて浅草の待乳山で「聖天さま」として信仰される。

インドのガネーシャから、日本の聖天さまへ。

その長い歴史を予習してから実際に参拝したことで、境内にガネーシャ像が見つからなかったことまで、ひとつの発見になりました。

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