浅草寺について調べていて、一つ気になったことがあります。
「お寺のすぐ隣に、なぜ神社があるんだろう?」
浅草寺本堂のすぐ東側には、浅草神社があります。
浅草寺は仏教のお寺。
浅草神社は神道の神社。
現在の感覚では別々の宗教施設なのに、どうしてこれほど近くにあるのでしょうか。
最初は「昔は神仏習合だったから、お寺と神社が一緒にあったのかな」くらいに考えていました。
ところが歴史を調べてみると、もう少し面白いことが分かってきました。
伝承上では、先に浅草寺があり、浅草神社の起源となる三社権現はずっと後に成立したと考えられているのです。
しかも浅草神社に祀られているのは、浅草寺の始まりに関わった3人。
なぜ浅草寺の創建から何百年も経って、3人は「神様」として祀られるようになったのでしょうか。
そこを調べていくと、神仏習合、本地垂迹、権現、そして明治時代の神仏分離という日本の宗教史につながっていきました。
今回は浅草寺へ行く前の予習として、浅草寺と浅草神社の違い、そしてなぜ二つが隣り合っているのかを調べてみます。
浅草寺と浅草神社の違いを簡単にいうと?
まず、現在の浅草寺と浅草神社は別の宗教施設です。
| 比較 | 浅草寺 | 浅草神社 |
|---|---|---|
| 種類 | 寺院 | 神社 |
| 宗教 | 仏教 | 神道 |
| 中心となる存在 | 聖観世音菩薩 | 浅草寺創建に関わった3人など |
| 参拝 | 合掌して礼拝 | 二礼二拍手一礼が基本 |
つまり現在だけを見れば、
浅草寺=仏さまを祀るお寺
浅草神社=神様を祀る神社
という違いがあります。
ところが歴史をさかのぼっていくと、この二つはまったく無関係な寺と神社ではありません。
むしろ、浅草神社の始まりを知るためには、先に浅草寺の歴史を知る必要があります。
先にできたのは浅草寺だった
浅草寺の始まりは628年と伝えられている
浅草寺の寺伝によると、その始まりは推古天皇36年(628年)です。
檜前浜成(ひのくまのはまなり)と檜前竹成(たけなり)という兄弟が、現在の隅田川で漁をしていました。
ところが網に入ったのは魚ではなく、一体の仏像でした。
兄弟がその像を土地の有力者だった土師中知(はじのなかとも)に見せたところ、聖観世音菩薩であることが分かったと伝えられています。
土師中知は観音さまを深く信仰し、自宅を寺として観音像を祀りました。
これが浅草寺の始まりとされています。
さらに645年には勝海上人が観音堂を建立したと伝えられています。
つまり浅草寺の創建伝承には、
- 観音像を見つけた檜前浜成
- 同じく観音像を見つけた檜前竹成
- 観音像を祀った土師中知
という3人の人物が登場します。
この3人が、後の浅草神社につながっていきます。
浅草神社は浅草寺より後に生まれた?
では、浅草神社はいつできたのでしょうか。
ここは少し注意が必要です。
浅草神社の正確な創建年代は分かっていません。
浅草神社に伝わる由緒では、土師氏の子孫の夢に観音さまが現れ、浅草寺の創建に関わった3人を神として祀るよう告げたとされています。
そこで、
- 檜前浜成
- 檜前竹成(武成)
- 土師中知(真中知)
の3人を「三社権現」として祀るようになったと伝えられています。
現在の浅草神社の起源です。
正確な創建年代は不明ですが、平安時代末期から鎌倉時代初期以降に成立したと考えられています。
つまり伝承を時系列に並べると、
628年 観音像が発見される
↓
土師中知が観音像を祀る
↓
浅草寺の信仰が続く
↓
何百年もの時間が経過
↓
浅草寺創建に関わった3人が神として祀られる
↓
三社権現
↓
現在の浅草神社
という流れになります。
ここで、さらに大きな疑問が出てきました。
なぜ浅草寺の創建から何百年も経って、突然3人を「神様」として祀るようになったのでしょうか。
なぜ浅草寺を始めた3人が神様になったの?
浅草神社には「観音さまのお告げ」という伝承がある
浅草神社の由緒では、観音さまが土師氏の子孫の夢に現れ、祖先3人を神として祀るよう告げたと伝えられています。
つまり伝承上では、浅草寺の観音さまと無関係に3人が神格化されたわけではありません。
観音さまの示現に関わった3人を、観音さまのお告げによって神として祀る。
浅草寺の信仰とつながった形で、三社権現が成立したことになります。
ただし、これはあくまで浅草神社に伝わる由緒です。
「なぜこの時代に3人を神として祀る信仰が成立したのか」を考えると、当時の日本の宗教事情も非常に興味深いものでした。
当時は「神様と仏様を結びつける」時代だった
神仏習合とは?
現在の私たちは、
「お寺は仏教」
「神社は神道」
と自然に区別しています。
しかし、昔の日本では必ずしもそうではありませんでした。
仏教が日本に伝来した後、日本古来の神々への信仰がなくなったわけではありません。
むしろ長い年月をかけて、仏教と日本の神々を結びつけて考えるようになります。
これが神仏習合(しんぶつしゅうごう)です。
「神様の正体は仏様?」という考え方も広がった
神仏習合が進む中で発達したのが、本地垂迹(ほんじすいじゃく)という考え方です。
簡単にいうと、
仏が本来の姿
↓
日本の人々を救うため
↓
神の姿となって現れる
という考え方です。
今の感覚では「神様と仏様は別では?」と思いますが、当時はむしろ神と仏を結びつけて理解する思想が発達していました。
「権現」という名前も神仏習合と関係している
ここで重要になるのが「権現(ごんげん)」という言葉です。
権現とは、仏や菩薩が人々を救うため、仮に日本の神の姿となって現れたもの、とする神仏習合の考え方と深く関係しています。
浅草神社の前身が「三社権現」と呼ばれていたことにも、こうした当時の宗教観が表れています。
全国を見ても、熊野権現や山王権現など、「権現」と呼ばれる神々が信仰されるようになりました。
つまり三社権現だけが突然、特殊な考え方から生まれたわけではありません。
三社権現も「当時の流れ」の中で生まれた?
ここまで調べると、私は一つの疑問を持ちました。
「浅草寺を始めた3人を神様にしたのは、当時の流行のようなものだったのでは?」
かなり乱暴に言えば、そう捉えると分かりやすい部分があります。
ただし、単に「神様にすることが流行っていたから3人も神様にした」と考えるのは正確ではありません。
三社権現がいつ成立したのかは、正確には分かっていません。
一方で、その成立時期として考えられている平安時代末期から鎌倉時代初期は、神と仏を結びつける本地垂迹や権現思想が発達していた時代と重なります。
そのため、
浅草寺に古くから伝わる観音信仰
+
観音さまの示現に関わった3人の伝承
+
当時広がっていた神仏習合・権現思想
こうしたものが重なり合う中で、三社権現への信仰が成立していった可能性を考えることができます。
ただし、「権現思想が流行したから三社権現が作られた」と証明されているわけではありません。
伝承と、その時代の宗教的背景を分けて考える必要があります。
浅草寺と三社権現は一緒に信仰されるようになった
こうして浅草寺の隣に三社権現が成立すると、両者は長い間、密接な関係を持つようになります。
現在のように、
「ここは寺だから仏教」
「ここから神社だから神道」
と完全に分けて考えるのではありません。
観音さまと、その観音さまの示現に関わった3人の神様が、同じ信仰空間の中で信仰されていたのです。
浅草神社の「三社」と、浅草を代表するお祭りである三社祭も、この3人の神様につながっています。
現在にも残る「観音さまと3人の神様のつながり」
面白いことに、神仏習合の時代に生まれた浅草寺と浅草神社のつながりは、現在にも見ることができます。
毎年3月18日に行われる浅草寺の本尊示現会(ほんぞんじげんえ)です。
浅草神社の3基の神輿が浅草寺本堂へ上げられます。
神輿には、浅草寺創建に関わった3人の祭神が乗るとされています。
つまり、
約1400年前に観音さまの示現に関わった3人
↓
後世に神様として祀られる
↓
現在も神輿に乗って浅草寺の観音さまのもとへ向かう
という構図です。
現在は浅草寺と浅草神社が別々の宗教施設になっていても、両者の歴史的なつながりが完全になくなったわけではないことが分かります。
ところが明治時代に「神と仏を分ける」ことになった
約700年続いた関係に大きな変化
浅草寺と三社権現の関係に大きな転換が訪れるのが明治時代です。
1868年、明治政府は神道と仏教を制度上区別する神仏分離を進めました。
それまで日本各地では、神と仏が長い時間をかけて複雑に結びついていました。
それを明確に分けていくことになったのです。
浅草でも、
長い時間をかけて神と仏が結びつく
↓
三社権現として浅草寺と密接に信仰される
↓
明治時代になって寺と神社を分離
という大きな変化が起こりました。
三社権現から浅草神社へ
「権現」という名称自体が、神と仏を結びつける考え方と深く関係しています。
そのため神仏分離によって名称も変化します。
三社権現社は明治初期に三社明神社と改称され、さらに浅草神社となりました。
こうして現在の、
浅草寺=仏教寺院
浅草神社=神道の神社
という形ができていきました。
「浅草寺の中に浅草神社がある」は正しい?
現在の地図を見ると、浅草神社は浅草寺本堂のすぐ東側にあります。
実際に歩けば、「浅草寺の境内に神社まである」と感じるかもしれません。
しかし現在の浅草寺と浅草神社は、それぞれ独立した宗教施設です。
そのため、
「浅草寺の中に浅草神社がある」というより、「浅草寺に隣接して浅草神社がある」
と考えた方が正確です。
ただし、単に「別々の寺と神社が偶然隣にある」と考えるのも違います。
その位置関係には、浅草寺の創建伝承から神仏習合、三社権現、そして神仏分離まで続く長い歴史があります。
浅草寺と浅草神社では参拝方法も違う
浅草寺では合掌
現在の浅草寺は仏教寺院です。
本堂では観音さまに向かって合掌してお参りします。
神社のように拍手はしません。
浅草神社では二礼二拍手一礼
一方、浅草神社は神社なので、基本的には二礼二拍手一礼で参拝します。
すぐ隣にある二つの場所で参拝方法が変わる。
これは子どもと一緒に訪れたときにも、寺と神社の違いを実際に体験できるポイントになりそうです。
子どもにはどう説明する?
神仏習合、本地垂迹、権現思想まで説明すると、小学生には少し難しそうです。
現地では、こんなふうに説明してみようと思います。
「最初に浅草寺ができたんだって。」
「浅草寺では観音さまを祀っているんだよ。」
「その観音さまを見つけて祀った3人が、何百年も後になって神様として祀られるようになった。それが隣の浅草神社につながっているんだって。」
そして高学年なら、
「昔の日本では、神様と仏様を今みたいにはっきり分けず、一緒に信仰することも多かったんだよ。」
と付け加えれば、神仏習合の入口にもなりそうです。
実際に浅草寺と浅草神社で確認してみたいこと
ここまで予習すると、現地で確かめたいことがいくつも出てきました。
- 浅草寺本堂から浅草神社までは実際にどれくらい近いのか
- 歩いていて、どこから「寺」から「神社」に変わったように感じるのか
- 浅草神社に3人の祭神についての説明があるのか
- 「三社権現」という昔の名前について現地に説明があるのか
- 神仏習合や神仏分離について説明するものは残っているのか
- 三社権現の成立時期について分かる資料はあるのか
- 浅草寺と浅草神社で参拝方法がどう違うのか
特に気になるのが、三社権現がいつ成立したのかという点です。
正確な創建年代が分かっていないので、現地に資料や説明がないか探してみたいと思います。
まとめ|浅草寺と浅草神社を並べて見ると日本の宗教史が見えてくる
最初の疑問は、とても単純でした。
「なぜ、お寺のすぐ隣に神社があるの?」
しかし調べてみると、その答えは約1400年前までさかのぼりました。
浅草寺の伝承では628年、隅田川から観音像が見つかります。
その観音像を見つけ、祀った3人が、何百年もの時間を経て今度は神として祀られるようになりました。
その背景となる時代には、神と仏を結びつける神仏習合や本地垂迹、権現思想が発達していました。
そして三社権現は浅草寺と密接に関わりながら信仰されていきます。
ところが明治時代になると、今度は神仏分離によって神と仏が制度上分けられます。
流れを整理すると、
浅草寺の観音信仰
↓
創建に関わった3人を神として祀る
↓
神仏習合の中で三社権現として信仰される
↓
明治時代の神仏分離
↓
現在の浅草寺と浅草神社
となります。
現在の浅草寺と浅草神社だけを見ると、単に「お寺と神社が隣り合っている」ように見えます。
しかし、その間には神と仏を結びつけていった時代と、それを再び分けた時代の両方が残されています。
浅草寺と浅草神社が隣り合っている風景そのものが、日本人が神様と仏様をどのように信仰してきたのかを知る教材なのかもしれません。
次は実際に浅草寺から浅草神社まで歩いて、予習した歴史を現地で確かめてみたいと思います。


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